意識論考日記#3

第240段落(p.85)

わたしたちが把握するのは感覚によってだけであるが、この把握は一瞬間だけしか満たさない(ただし多くの感覚の継起はここでは考慮に入れない)。(中略)ところで経験的な直感において存在する感覚に対応するのは実在性である(現象的な実在性)。だから感覚の欠如に対応するのは、否定性であり、ゼロである。

たとえば、グレーの壁で塗られた何も物がない密室にあなたがいるとする。その部屋には、穴が空いていて、そこから風が出てくる。さて、風を感じるのは僕たちの皮膚(触覚)である。ここで、あなたが皮膚になにも感じていない時、風は吹いていると言えるのであろうか?否、あなたは皮膚になにも感じてはいない、ましてや、風が吹いているだなんて、どうして言えるのであろうか?つまり、風は感知されないのであり、これは風が吹いていないことを意味する。”否定性であり、ゼロである”。

僕は、意識は、知覚してこそ認識されうるように思える。知覚は、意識の”窓口”、か?

第240段落(p.85-86)

感覚というものは、減少することのできるものである。だからあらゆる感覚は次第に減少してゆくものであり、次第に消滅してゆけるものでもある。こうして、現象における実在性[すなわち感覚の存在]と否定性[すなわち感覚の欠如]のあいだには、多数の可能的な中間的な感覚が連続的に結びついた状態が介在するのである。

先ほどの例を引き継ぐ。風を感じる時、扇風機でいう「弱・中・強」(今の扇風機はもっと段階があるけど)のようには感じないであろう。風を、弱い状態からだんだんと強くする。そして、あなたの皮膚も、それに応じて風をだんだんと強く感じる。さいごは「ああ、前よりは強くなったな」と感じる。つまり、デジタルではなく、アナログ。

ちなみに、今回、p.393の解説をもとにして考えた。

では、また次回!


今回読んだ本:純粋理性批判3(光文社古典新訳文庫)

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