意識論考日記#4(『純粋理性批判』,『意識はいつ生まれるのか』)

今日読んだ本

  • 意識はいつ生まれるのか――脳の謎に挑む統合情報理論(亜紀書房)
  • 純粋理性批判3(光文社古典新訳文庫)

『意識はいつ生まれるのか――脳の謎に挑む統合情報理論』

今回読んだ箇所は、第2章「疑問が生じる理由」だ。

p.37には、チューリングテストについて書かれていた。(チューリングテストとその周辺の詳細については、またどこかで記事を書こうと思っています。)チューリングテストについて超ざっくりと説明すると、話し相手が単なるコンピュータか、それとも人間と同じように考えることができるコンピュータか、を見分けるテストのことである。では、いかにして、人間と機械を見分けられるようにすることができるのであろうか。チューリングが考えたことがp.37に書いてあったので、抜書きしてみる。

通信機の向こう側にいる人間と、人間同士の会話となんら変わりないやりとりができるならば、その機械は考える能力を持ち、自分のいっていることの意味を理解している、というものだ。

ちなみに、”通信機の向こう側”とあるけど、未来では人間にそっくりなアンドロイドが社会に浸透してくると思うから、これはアンドロイドと人間とを見分ける方法、とも言えるとおもった。

さて、ぼくはこれを読んで「う~ん、なんかビミョーだな・・・。」と思ってしまった。5分、10分といった短時間であれば、高性能なコンピュータはこのテストにクリアできそうだ。だが、1時間、2時間、さらは1日、1週間、と連続でやったらどうなのだろうか?なにか、ほころびが見えてきそうな感じもする。すべてのコンピュータにおいて。というか、”人間同士の会話となんら変わりないやりとりができる”とあるけど、これ、おもいっきり主観が入る判定な気がする。だから、人間がそのテストの判定に関わることは、あまり良いとは言えないと思う。あ、複数人で判定すれば、精度があがるかも。でも、ぼくとしては、そのような判定をするコンピュータが必要になると思う。

また、もし言語障害をもっている方がこのテストをすれば、その方は機械と判定されてしまうってことになりはしないだろうか?もし、そう判定されたら、人権侵害とかにならないのかな?

『純粋理性批判3』

p.396(本文ではなく、解説)

「すべての感覚は、感覚としてはアポステリオリにしか与えられることがないにもかからわず、全ての感覚は強度を持つという特性は、アプリオリ認識することができる」(250)のである。
ということは、「感覚の性質は、つねにたんなる経験的なものであり、アプリオリに思い描くことのできるものではない」(同)が、感覚が強度を持つこと、そしてこの強度の違いが対象の性質の違いに対応したものであることは、アプリオリに、すなわち認識に〈先取り〉する形で予期することができる。 そして「その他のすべてのことは、経験に委ねられている」(同)のである。

この「強度」というものは、知覚したときに感じる度合い、といったことであろう。木賊色(とくさいろ)、苔色(こけいろ)、海松色(みるいろ)。どれも同じ緑色のように見えるが、感じる度合いは違う。

さて、ぼくがこの文章を読んで疑問に思ったことは、「経験する以前に”すべての感覚は強度を持つ”というのは知り得るか?」ということである。つまり、”すべての感覚は強度を持つ”というのは、先天的なものなのか、後天的なものなのか、ということである。

この点については、たしかどこかに書いてあったはずなので、また調べて記事にしようと思う。ちなみに、答えは「後天的」だ。神経細胞の発達過程において、認識できる対象が変わってくる。というようなことをどこかで見た。詳細は、どこかで記事にしようと思います!

では、また次回!

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