意識論考日記#5(『純粋理性批判3』)

今日、意識を考える際に読んだ本;『純粋理性批判3』(光文社古典新訳文庫)


p.403

カントは多くの自然科学者たちが、空間が満たされている度合いの違いは真空の存在によってしか説明できないのであり、真空の存在は「必然的」なものだと考えていることを指摘する。というのも空虚な空間を想定しなければ、こうした違いを説明することができないはずだ」(同)と考えられたからだった。しかしカントはこれは「度の違い」によって説明できるのだと指摘する。カントは『自然科学の形而上学的な原理』においては、「あらゆる空間は完全に充実していて、しかも様々な度の違いにおいて充実していると考えることができる。これにより、空虚な空間なるものは少なくともその必要性を失い、仮説としての価値にまで引き下げられることになる」と説明している。

さて、今回、この箇所を読んで、カントのいう、空間における”さまざま度の違い”とは、重力場や電場・磁場などのような「場」のことだとおもったのだが、どうだろうか?つまり、空間における「度」とは、物理でいうところの「場」だと僕は思ったのだ。まさか、”さまざま度”とは、「さまざまな原子や分子」ではないだろう。というのも、そのようにとらえると、原子や分子のない空間、つまり真空を仮定しなければならなくなり、カントの意見に反するように思えるからだ。

さて、個人的に、空間に「意識場」を仮定すれば、人間精神は空間に”溶け込む”ことが可能になるのではないか、と考えている。今回のカントの考えを僕の解釈どおりだとすると、「意識場」を大真面目に議論してもいいのではなかろうか?

では、また次回!

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